現在のダッカがある地域が市街地化された最初の時期は7世紀であり、8世紀には仏教国のカーマルーパ(英語版)王国、次いでパーラ朝の統治下にあった。そして9世紀からはヒンドゥーのセーナ朝がこの場所を治めた[11]。12世紀になり、女神ダケーシュワリー(英語版)を祀る寺院がバッラーラ・セーナ(英語版)によって建立されると、これにちなみ都市は「ダッカ」と呼ばれるようになった[12]。当時のダッカ周辺はベンガラ (Bengalla) と呼ばれ、市街には小規模な市(Lakshmi Bazar, Shankhari Bazar, Tanti Bazar, Patuatuli, Kumartuli, Bania Nagar, Goal Nagar)がいくつか立った。セーナ朝の後には、ダッカはデリー・スルターン朝が送り込んだテュルク人やパシュトゥーン人による為政が続いたが、勃興したムガル帝国が1608年に当地を支配した[13]。 ムガル帝国のベンガル州都となったダッカでは、都市の開発と人口増加が始まった[14][15][16]。行政担当を担当した初代知事イスラーム・ハーン(英語版)[17]は、皇帝ジャハーンギールにちなんでこの都市の名をジャハーンギールナガル(「ジャハーンギールの都」の意)と定めた。シャーイスタ・ハーン将軍の頃[15][16]、都市は19×13kmの市域に約100万人を抱えるまでに発展した[18]。 1765年、イギリス東インド会社は徴税権(ディーワーニー・ライト、Diwani right)を獲得し、1793年にはベンガルの貴族階級(ナワーブ、Nawab)はベンガルやビハールまたオリッサの州や都市に対する利権を放棄することを強いられ、イギリスはこれら地域を支配する行政権をも手中にした。この期間、コルカタの人口が増加した事と対照的に、この地区の都市からは市民の流出が続いた[19]が、実質的な発展は続き、近代化も行われた。現代的な都市給水網は1874年に導入され、電力供給も1878年に始められた[20][21]。その一方、ダッカ駐屯地(英語版)が都市近郊に設けられ、イギリスとベンガルの軍が駐留することになった[16]。 1905年のベンガル分割令が発布され、ダッカは新設された東ベンガル、アッサム州の首府とされたが、この法令は1911年に撤回された[14][15][16]。1947年、インドが分離独立すると、ダッカは東パキスタンの首府となった。しかし、このインド分割に端を発する住民間の対立が激しくなり[16]、ヒンドゥーの多くがインドへ移住、逆にムスリムの流入が増えた。ダッカは地方行政府であったため、政治的な抗議活動や暴力行為が頻発するようになった[16]。さらに、パキスタンの公用語をウルドゥー語のみに統一した事がこれらに拍車をかけ、ベンガル語運動(英語版)が沸き起こった。この運動では、パキスタン警察が平和的なデモを行っていた学生ら多数を殺害する事件も起きた[22]。この事件を記念するのがショヒド・ミナールで、事件が起きた2月21日は国際母語デーとなっている。1950年代から1960年代にかけて、ダッカは政治活動の温床であり続け、ベンガル人による自治を要求する運動は高まりを見せた[23]。 1970年、大型台風のボーラ・サイクロンがダッカ及び周辺を襲い、約50万人が死亡した[24]。市域の半分が水没し、数百万人が水の被害を受けた[25]。中央政府の民族差別的かつ不充分な救援は、民衆に怒りを沸き立たせ、1971年3月7日にはベンガル人政治家のムジブル・ラフマンが呼びかけスフワルディーー広場(英語版)で民族主義の集会が開かれた[16][22]。集会には約100万人が集まり、これが3月26日に行われたバングラデシュ独立宣言に繋がった[22]。これに対しパキスタン軍は「サーチライト作戦(英語版)」を敢行して対抗し、何千人もの逮捕・拷問そして殺害を行った[26]。争乱は9ヶ月に渡る血みどろの戦闘に発展し、バングラデシュ‐インド連合軍 (Mitro Bahini) の前にパキスタン軍は降伏し、バングラデシュ独立戦争が終戦した[27]。ダッカは新生国家バングラデシュの首都となり、国中の農村地域から出稼ぎ労働者を受け入れる形で急速に人口を増やし大規模な都市拡張を見せた[28]。これに伴い商業や産業も発展し、インフラストラクチャーの整備にも着手され始めた[29]。不動産取得がブームとなって市域が拡大し、ウットラ(英語版)地区、モハマドプール(英語版)地区、ボシュンドラ、ミルプール(英語版)、モティジール(英語版)などの地区が開発された[30]。一方、このような人口増加は窃盗など犯罪件数の増加にも繋がっている[3]。
参照元:Wikipedia「
ダッカ」
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